時はおよそ2600年前、インドのマガダ国のお城には、子宝に恵まれない国王とお后様が暮らしていました。
ある日、通りがかりの予言者に「あの山に住む修行者が3年後に命が終わるとき、お后様に世継ぎとして宿るでしょう。」と言われました。
早く世継ぎが欲しかった王様は、こっそりと家来を山につかわせて、その修行者を殺しました。
予言通りにお后様はすぐに身ごもりました。
いよいよ産まれるときになり、事実を知った予言者が再び現れて言いました。
「なんと愚かな事をされたのか!生まれてくる王子は、将来必ず王様の命を狙うでしょう。」と。
焦った王様は、何とか赤子を始末させようと企てましたが失敗し、命拾いをした王子はアジャセと名付けられ、すくすくと育ち、好青年になりました。
やがて、日頃から権力の座を狙っていたダイバダッタがアジャセ王子に近づくようになり、仲良くなって入れ知恵をしていました。
王様が予言者の言葉を恐れて王子を殺そうとしていた事実や計画をダイバダッタが教えました。
その日を境に、好青年であったアジャセ王子は父である王様に憎しみを抱き、変貌していくのでした。


今からずっとずっと昔...

およそ2600年前、インドにお釈迦様がいて、たくさんの菩薩様やお弟子様が集まっていた頃のお話です。

インドのマガダ国のお城に、アジャセという名の王子が生まれました。

王子にはダイバダッタという悪い友達がいて、父である王様を殺そうという企みを、王子にもちかけました。

とうとう王様を牢屋に閉じ込めてしまいました。王様のお后様は、わが息子の行いを大変悲しみました。

食べ物を与えられない王様を助けようと、お后様は身体に蜜をぬり、首飾りに葡萄酒を入れて、牢屋に会いにいきました。

お后様からひそかに食べ物をもらった王様は、お釈迦様のおられる山に向かい手を合わせ、「どうか私に、お弟子様をつかわせ、八つの戒を授けてください。」とお願いしました。

その願いをお聞きになったお釈迦様はすぐに弟子をつかわせ、戒を授け、法を説きました。そのおかげで、王様は、身も心も元気になっていきました。

一方、なかなか死なない王様を不審に思ったアジャセ王子が、牢屋の門人からすべてを聞き出し、怒り狂いました。

食べ物を与えた母と、法を説いた弟子たちを悪人と思い、母を殺そうとしましたが、家臣たちにそのような愚かな行いだけはやめるようにと説得され、思いとどまりました。

身動きがとれないように、城の奥に閉じ込められたお后様は、大変憔悴し、お釈迦様のいる山に向かい手を合わせ、教えをこいました。

その願いがお釈迦様に通じ、お后様の目の前にお釈迦様とお弟子様が現れました。

お后様は思わず地に身をなげ、号泣しました。「私は過去に一体どんな罪を犯した結果、こんな悪い子を生んでしまったのでしょうか。
どんな因縁でダイバダッタという悪い友達が現れたのでしょうか。
私は底知れない悩みから解放され、清らかな国に生まれかわれるのでしょうか。」

お釈迦様は、その眉間から光を放ち、諸仏のいらっしゃる清らかなお浄土をみせ、お后様は特に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれたいと願われました。

お后様の懇願をうけ、お釈迦様は極楽浄土に生まれる方法を説き示されたのです。

お釈迦様は、お后様とお弟子様に説きました。
もしあなたが心を静かに落ち着かせた状態で瞑想することができるなら、あなたが必ず生まれる極楽浄土をすぐにみて感じることができます。そして極楽浄土の想い浮かべ方には次のような方法があると説きました。

日の沈む西の方に、阿弥陀仏の極楽浄土があることを想いなさい。

澄みわたる清らかな水面は静かに輝いていて心が洗われるようです。

氷の張った湖面がキラキラと輝き、空と大地を映し、それはそれは素晴らしい景色です。

極楽の大地は、命の根源である水を貯え力強く光を放ち、美しい姿を映し出します。

宝石をちりばめたような実をもつ樹が、たおやかに枝葉をゆらしています。

宝の池には、美しく咲く七色の蓮華、妙なる香り、まるで音楽を奏でるような水の音

【注釈】
日想観...極楽浄土は西方にあると考えられています。西に向かって沈む太陽を没する姿を観想して、その向こうにある極楽浄土を想うこと。
水想観...水や氷のすがたを観想して、極楽浄土は瑠璃のようにきらめいていることを想うこと。
地想観...次に力づよい大地の様子を観想する。
樹想観...極楽には不思議な樹があり、宝石の実がなる美しい樹を観想する。
宝池観...不思議な力をもつ、宝の池を観想する。

宝石でできた仏様の住まいは、立派で輝かしく、いつも清らかな空気が流れています。

仏様が座る、美しい蓮の花を想い浮かべなさい。

仏様が座っている姿を想い浮かべれば、自然と極楽浄土の景色や生き物達すべてが、妙なる音で仏様の教えを説いている様子を見ることができます。

阿弥陀仏の姿を想い描きなさい。阿弥陀仏は美しく輝き、その一つ一つの光はすべての世界を照らしてお念仏を唱える人々を救います。

阿弥陀仏の左の蓮花の上に、観音菩薩を想い描きなさい。観音菩薩の身体は美しく輝き、その優しいまなざしは、私たちの心を覆うようです。

阿弥陀仏の右の蓮花の上に、勢至菩薩を想い描きなさい。勢至菩薩はあまねく智慧の光をもって、私達を悟りへと導きます。

これらの仏様や菩薩様を見たとき、私自身も極楽浄土の蓮の花の中に生まれることを想い浮かべなさい。

阿弥陀仏、観音菩薩、勢至菩薩は、私たちが想い浮かべれば、すぐにその姿をさまざまな形に変えて、私たちの前に現れてくださるのです。

【注釈】
宝楼観...宝石でできた立派で輝かしい仏の住まいを観想する。
華座観...阿弥陀仏の輝かしく立派な台座を観想する。
像想観...仏像を観想して、阿弥陀様の姿を心に強く想う。
真身観...強く阿弥陀様をみて想うことで、その真実の姿を観想する。
観音観...観音菩薩を観想する。
勢至観...勢至菩薩を観想する。
普観...仏さま、菩薩様、極楽浄土を観想する。
自在身観...仏さまは色々な姿形になって、私たちの前に姿を見せてくださることを観想する。
これら~の方法で極楽浄土の様子を具体的に観想することを説かれた。

続けてお釈迦様は、私たち人間の生き方と極楽浄土での生まれ方を九通りに説きました。 たとえすぐに乱れてしまう心を持っている人でも、極楽浄土に生まれることができます。

上品上生(じょうぼんじょうしょう)

日常よりお経をよく読み、誠の心で阿弥陀仏の教えを信じ、極楽浄土に生まれる人

上品中生(じょうぼんちゅうじょう)

心を静める時間を持ち、深く阿弥陀仏の教えを信じ、極楽浄土に生まれる人

上品下生(じょうぼんげしょう)

悟りを得たいという心を起こして、その功徳をもって極楽浄土に生まれる人

中品上生(ちゅうぼんじょうしょう)

日常より戒律を守り、罪を作らず、その功徳をもって極楽浄土に生まれる人

中品中生(ちゅうぼんちゅうじょう)

出来る限り戒律を守る努力をし、その功徳をもって極楽浄土に生まれる人

中品下生(ちゅうぼんげしょう)

親孝行などの善い行いを積んで、その功徳をもって極楽浄土に生まれる人

下品上生(げほんじょうしょう)

善い行いをしていないが、命終わるときに阿弥陀仏の教えを聞き、南無阿弥陀仏と称えて罪を滅ぼし、極楽浄土に生まれる人

下品中生(げほんちゅうじょう)

悪い行いを重ねてきたが、阿弥陀仏の不思議な力を聞いて、罪を滅ぼし、極楽浄土に生まれる人

下品下生(げほんげしょう)

救いようのない人であるが、命終わる時に阿弥陀仏の名を十回称えて罪を滅ぼし、極楽浄土に生まれる人

【注釈】 本章1の定心(じょうしん)での観想に対し、こちらは散心(さんじん)での観想、つまり我々凡夫でも極楽浄土に生まれることができる九つの道がとかれています。一人一人の行いなどにあわせて九つに分けられています。

①上観 以下の行いをしてきた者が、自分達の行いの功徳によって極楽浄土に生まれたいと願うなら、命終わるときに仏菩薩たちは迎えに来て、それらと一緒にすみやかに極楽浄土へ生まれることが叶います。
上品上生...日々の行い正しくして戒を守り、仏の教えをよく学び、仏の教え(経典)を読むことを欠かさない者。
上品中生...仏の教えを読むことはないけれども、その理をよく理解して、教えにそむくことのない者。
上品下生...ものごとの理をよく理解して仏の教えにそむかず、再び迷いの世界に生まれないと心を起こした者。

②中観 以下の行いをしてきた者が、自分達の行いの功徳によって極楽浄土に生まれたいと願うなら、仏たちと共に極楽浄土に生まれることが叶います。
中品上生...さまざまな戒をよく守り、罪を犯さない者。
中品中生...一日一夜、さまざまな戒をよく守った者。
中品下生...父母に孝行し、いつくしみある心で世を生きた者。

③下観 以下の行いをしてきた者であっても、極楽浄土へ生まれることが叶います。
下品上生...仏の教えにそむくことはないが、さまざまな悪い行いを積んで恥ずかしいと思わぬ者が命終わるとき、仏の教えの名を讃えるものに出会い、その名を聞くことや合掌して阿弥陀仏の名を称えることを教えられ、長い間受けるべき罪を滅する者。
下品中生...多くの戒を犯し、盗みなどをはたらき、自ら欲望のとりことして生きてきた者が、命終わるとき地獄の炎が押し寄せてくるのです。そのとき、この者のために阿弥陀仏の不思議な力、功徳を説いた善い人がいて、その言葉を聞いたとたん地獄の炎は涼しい風とかわり、長い間受けるべき罪を滅する者。
下品下生...さまざまな悪い行いを積み重ねたために、地獄におちて、とてつもなく長い間の苦しみをうける身であった者が命終わるとき、善き人に出会い阿弥陀仏の功徳をきいたのです。しかしその者は、苦しみから阿弥陀仏を思うことすらできないために、ただ十回の念仏を保ち、そして、心をこめて阿弥陀仏の名を称えることにより、とてつもなく長い間の罪が消え、極楽浄土に生まれる者。


お釈迦様の話を聞き終えた時、お后様は極楽浄土の様子と阿弥陀仏の姿を見ることができ、大変喜びました。

弟子のアーナンダはお釈迦様に問いました。 「このお経の大切な教えは何でしょうか。」

お釈迦さまは言いました。「お念仏することである。お念仏する人は、泥の中に咲く白い蓮の花のような人である。その人の側にはいつも観音・勢至両菩薩が付き添い、いつも護られるであろう。だから絶えずお念仏をし、阿弥陀仏のみ名をたもちなさい。」と。

この説法を聞いた大衆は皆喜び、山に戻られるお釈迦様に礼をし、去りました。

このお経に出てくるお后様の苦悩の背景には、世継ぎ欲しさによる両親の過ち、修行僧の怨み、王子の両親への憎しみなどがあります。お后様が思い悩む内容や、どうすることもできない現実に苦しむ様子は、この時代の特別なことではなく、いつの時代でも人間誰しもが抱える苦しみではないでしょうか。2600年前も現代も何ら変わりはありません。お釈迦様が説き示されたお浄土は、どんな悪人でも救われ、苦しみもなく、穢れもなく、とても清らかな理想の世界です。

お経は、亡き人の為に説かれたものではなく、苦しみ汚れたこの世を喘ぐ今生きている私に説かれたものです。観無量寿経は悪を問い、悪の救いを説くお経として、娑婆世界に生きる私たちの道しるべなのです。

はるか時を超えても、今もなお私たちに大切なことを教えてくれます。

極楽浄土に生まれるために、お釈迦様が説き示された教えを心に刻みお念仏しましょう。

私たち誰しもが「白い蓮のような人」になれるのです。