第22話 鬼神への教化
前話でキサー・ゴータミーの話を紹介しましたが、ブッダが導いたのは人間だけではなかったと伝えられています。動物や天上の神々、そして悪鬼にいたるまで、釈尊の教えによって救われていく様が描かれています。仏教には衆生済度(しゅじょうさいど)という言葉があります。衆生とは生きとし生けるもの、済度とは「救う」という意味があります。つまり命あるもの全てを救おうとするブッダの慈悲心が説かれているのです。こんな話があります。
ハリーティーという女の鬼神がいました。彼女には五百人の子どもがいて、毎夜、人間の子をさらってきては、自分の子どもたちに食べさせていたというのです。
この事態に村人は恐れおののき、釈尊に助けを求めます。
釈尊は早速、ハリーティーの一番末っ子を隠してしまいます。当然ハリーティーは末っ子を捜しますが、釈尊の威力により隠された子を見つけることができません。彼女は半狂乱に陥ってしまいます。
やがて釈尊によって隠されたことを知ったハリーティーは、釈尊に礼拝をして子を返してくれるよう懇願します。釈尊は答えます。「そなたには五百人もの子がいるではないか。一人くらいいなくなってもよいのではないか?」
「とんでもございません。どの子もわたしにとっては大切な子です。一人も失いたくないのです」
「ハリーティーよ。五百人のうちたった一人の子を失う親の気持ちがわかるなら、多くても数人しか子どもがいない人間の親が子を失う気持ちは、いかばかりであろうか」釈尊の言葉にハリーティーは、初めて自分の罪に気づくことになります。今までの罪を深く反省し、釈尊に深く帰依をした彼女は、それ以後、悪鬼から、安産や子育ての善神として生まれ変わりました。このハリーティーこそ、今日の日本にも伝わっている鬼子母神なのです。
ハリーティーにそうしたように、釈尊は生きとし生けるものに教えを施し、ある者は帰依し、ある者は出家し、ある者は改心しました。このように釈尊によって諭されてきた者は数知れません。
第23話 逆縁の人
釈尊の弟子は増え、教団は拡大していきましたが、一方では異教徒から論争を挑まれたり、時には釈尊を陥れようとする者もありました。
たとえばシャーキャ族を属国とするコーサラ国の都では、釈尊が聖者として尊ばれることを快く思わない者もあったそうです。
ある時、チンチャーという女性が「釈尊の子を宿した」というデタラメを言いふらしました。もちろん釈尊を困らせてやろうとする罠です。さらには釈尊が住する近くで女性の死体が発見されたこともあったようで、これも釈尊もしくはその弟子の誰かが、女性を殺めたように見せかけるものでした。
弟子たちは釈尊に相談しますが、釈尊は取り合うことなく全く動じません。
そのうち真相が明らかになり、女性の命を奪った真の犯人は、人々の前で裁きをうけることになります。
また、釈尊の子を身篭ったと嘘をついたチンチャーも、逃亡の道すがら、大地の裂け目にはまって地獄の最も深いところに堕ちてしまったと伝えています。
信じがたいことは、教団の内部にも釈尊を良く思わない者がいたことです。
それは釈尊の従兄弟ダイバダッタでした(第6話参照)。
ダイバダッタは王子シッダールタとともに過ごし、ことあるごとに対立をしていたといいます。
釈尊成道の後は、彼も出家して教団の一員となったわけですが、ある意味ライバルであったシッダールタが今やブッダとして人々から尊敬されると、それを妬ましく思うこともあったようです。
彼自身も才能ある人物ですから、「我こそが尊ばれる者である」という過剰な自信が、彼を邪悪な道へと誘い込んだのかもしれません。
「王舎城の悲劇」という話があります。ダイバダッタが阿闍世(あじゃせ)という名の王子をそそのかし、王子の父である王を幽閉させ、阿闍世に王位を継がせるというものです(サイト中、「お経を読もう」の『観無量寿経』を参照)。
この時ダイバダッタは、阿闍世を利用して、釈尊を教団から追放させ、自分が教主の地位につこうと企てます。
しかし釈尊を追放させるのは容易ではありません。ついにダイバダッタは釈尊を暗殺しようとまで考え、兵士を集め実行に移ります。
ところが釈尊は兵士一人ひとりに対して穏やかに、争う心を生じさせる苦しみの話を語りました。これにより兵士たちは、ダイバダッタに暗示をかけられていたことを知り、その呪縛から解放されました。
ダイバダッタは次の手にでます。
釈尊が崖の下を通る時を狙って、大きな岩を上から落とします。しかしその岩は転がるうちに砕け、釈尊は指を怪我する程度で、重大な危害が及ぶことはありませんでした。
またある時は、闘争心むき出しの象を釈尊に襲わせたこともありましたが、釈尊の前で象はおとなしくなります。
釈尊の暗殺を謀っていたダイバダッタは、全ての計画を失敗し、挙句には重い病気にかかり苦しむことになります。この苦しみをなんとかしたいダイバダッタは、ついに釈尊に許しを請い救いを求めましたが、結局は深い地獄の底へと堕ちていったといいます。
現世において釈尊を殺そうと試みたダイバダッタは、「そのようなことをするとろくなことにならない」という、反面教師としての役割を果たしています。
私たちの日常でも起こりうる出来事として、悪い状態を知ることが、善い方向に向かう原因となることがあります。
身近なことをいうと、病気になって初めて健康の有難さに気づき、次からは体調管理をするようになります。
これを「逆縁」といいます。