仏教とは?宗教とは?
最初の仏様
仏教は仏様の教えであるということは間違いない答です。
では、仏様とは何なのか?
悟った人、真理に気付いた人。
まさにその通りです。
しかしお釈迦様イコール仏様ですが
仏様イコールお釈迦様ではありません。
お釈迦様が悟られる前にも大勢の仏様がいて
みなそれぞれに真理を見極めておられたのであり
最初の仏様、つまり仏教の創始者は誰なのか解らないのです。
残された教え
山ほどおられる仏様の中で、お釈迦様だけがどこでいつお生まれになり
いつどこでおなくなりになったかがはっきりしている仏様です。
インドでお生まれになったお釈迦様はお悟りになった後、80歳でおなくなりになるまで多くの人達に接し、多くの人達の心の支えになってこられました。
お釈迦様以前にいた大勢の仏様もお釈迦様と同様、大勢の人達の心の支えになりましたが
残念ながらそれらは後の世にまで伝えられることはありませんでした。
お釈迦様の弟子達はお釈迦様がおられなくなった後、何を心の支えにすれば良いのかと悩んだ結果、皆で集い、お釈迦様から聞いた教えを一字一句残さず文字にして残そうと考えたのです。
文字に書き留められ【お経】という形になったお釈迦様の教えは、今日に至るまで語り継がれることとなったのです。
お経の中身
ですからお経の中身を見ることでお釈迦様がお考えになられたことが全て知る事が出来るのです。
ありがたいことにお経の中にはお釈迦様よりもずっと以前に悟られた仏様のことまで詳しく書き残されています。
後の世にいろいろなタイプの人達が出てくるであろう事を予想されて、自分以外の仏様達のことまでも語って下さったお釈迦様の心配りといえるでしょう。
このように書くと、お釈迦様と他の仏様が悟られた内容は少しずつ違ったものだったのかと思われるかも知れませんが、悟りの内容、真理は一つであり、言い換えればお釈迦様の思いと全ての仏様の思いは同じであるということです。
ただ、それを伝えてもらい理解する我々の方に色んなタイプや考え方があるので、独り一人にマッチしたものを説かれたためにお経の量は膨大なものとなっているのです。
宗教は何の為に
悟りの目的とは何か? 一言で言うならば幸せになるための方法ではないでしょうか?
仏教は悟るために修行するのではなく幸せになるために修行する。
そして、その結果悟りを得るのではないでしょうか。
目の前にある苦しみ、老い、病い、死ぬという現実。
その現実から生まれる苦しみとどう向かい、どう乗り越え、いかにして幸せに生きて行くのか?
お釈迦様を始め全ての仏様が得られた答、幸せになるための方法こそが仏教であり、
それは全ての宗教に共通のテーマなのだと思います。
亡くなった人との別れをどう受け止めるのか?
今の自分の生き方をどう受け止めるのか?
心の持ち方一つで世界が変わることを仏教は教えているのであって
心の修行なのです。
仏教と国境
お釈迦様が語った仏教は最初サンスクリットというインドの文字でお経として書き表されました。
お釈迦様がインドでお生まれになったのですから当然のことです。
しかし、仏教はインド国内に止まらず僧侶によってあちこちで語られ、
また中には物語として旅人達によって話され
或いは教訓として商人達によって伝えられたりすることで
インド国外にも教えが広まっていきました。
僧侶達もインドからさらに南方へと船に乗って海を渡り、スリランカやタイ、ミャンマー等に伝道の旅をしました。
当然、その国の人達に伝えやすいようにそれぞれの国の言葉に直されて語り継がれて行きました。
また北に向かった僧達はネパール、そしてさらに高い山をいくつも越えチベットに仏教を広めます。
また或いは中央アジアのキジール、タジキスタンといった草原の人々に語り継がれたのです。
やがて、中国の貿易が盛んになると急速に仏教経典は漢文に訳されるようになり、それが朝鮮半島を通り
日本へも伝わってきたのです。
ところで世界の国々には、それぞれ違った習慣や文化があります。
また動物や植物、石などその地域にしか存在しないものも沢山あります。
インド人にとって当たり前でもタイや中国の人には解りづらいそんなものも沢山あります。
それに道徳や物の考え方についてもその土地柄や歴史などによって少しずつ異なっています。
インドで生まれた仏教を、そのまま他の国に持ち込んでも理解してもらえなければ何にもなりません。
そこでお経を翻訳する僧侶達は、少しでも仏教を理解してもらえるようにそれぞれの国に見合った表現で表す努力をしたのです。
ですから表面的にみるとインドの仏教と日本の仏教とではずいぶん異なっていますが、
そこに表されている土台になっている「心」は世界中の仏教に共通なのです。
分裂した仏教?
これは仏教だけではなく、多くの宗教がそうなのですが
同じ宗教なのに、その中にいくつもの「宗派」というものが存在しており、
時にはその宗派間で論争が起こり、時には血を流す戦争にまで至る場合もあるという現実があります。
外国には民族の違いによって生まれた宗派というのもありますが、ほとんどは仏様のどの教えを中心にするかによって生まれたものです。
というとお釈迦様はあっちではああ言い、こっちではこう言いといい加減なのか?と思われるかも知れませんが決してそうではありません。
先にも触れましたが、お釈迦様はすべての人を救おうとお考えになられたのでこの世の中の人々のそれぞれのタイプ、考え方に相応しい形で教えをお説きになられたのです。
何度も言いますが、仏様の悟られた真実は一つ。
その一つの真実を多くの人に解ってもらおうと様々なお経をお説きになられたのです。
ここで例を出してお話しましょう。ここに、食事をほとんど取らずに痩せこけて倒れそうな人がいます。
お釈迦様はこの人に食事を取るように奨められます。
これを聞いた毎日食べ過ぎて叱られている人が「お釈迦様が食べろ」とおっしゃったのだと言って食事を止めなかった。
この人は嘘をついてはいませんが、「食べろ」という言葉はこの人の為に相応しくないことはいうまでもありません。
お釈迦様は「私の教えにとらわれてはいけない。川を渡るのに筏は役に立つが渡りきった後、山を登る時には妨げになる」とおっしゃっています。
多くの人の為に多くの教えが説かれた。
そして、その国、その時代、その立場に応じて
それぞれに相応しい教えを選び取った。
その人達の仲間が、宗派となっていったのです。
同じ思いの人が集まって互いに信仰を育てるのは大切なことです。
ただし、大切なのは何れの宗派も思いは同じだということを忘れずに
決して相手を批判することのないようにして欲しいのです。
これは仏教だけに限らず、他の宗教に対しても同じこと。
何故なら、どの宗教も「幸せになる」ということを目的としているのですから。