10 アーナンダ

アーナンダ尊者は多聞(たもん)第一のお弟子さま

アーナンダは、ブッダとは従兄弟だといわれています。ブッダとは30歳近い年齢差がありました。
アーナンダは生まれつき容姿端麗だったようです。今流行のイケメン、○○王子と名付けるなら、仏弟子王子と名付けましょうか。その目は睡蓮のように切れ長で美しい形をしていて、身体からは美しい光を放っているような姿と言われていましたから、いつも女性達からは注目の的だったようで、やはり今で言う「追っかけ」ファンもいたようです。
彼が出家した経緯は、アヌルッダの頁で語りましたね。ブッダの名前が故郷のカピラヴァストウに聞こえるようになり、釈迦族の若者達の間で、ブッダの弟子になろうという動きがあり、アヌルッダをリーダーとして七人の若者達がブッダの膝下に入りました。その中の一人がアーナンダであったわけです。
数あるアーナンダの逸話の中から、有名なこの話を紹介させていただきます。

「侍者」

マガダ国はラージャガハ(王舎城)でのことです。 ブッダも悟りを得てから二十年が過ぎ、此の頃は足腰の弱さを痛感するようになってきました。
「私も寄る年波を感じるようになってきた」  と、ブッダは一人呟きました。  周囲を見れば、サーリプッタやモッガラーナ、マハーカッサパ、アヌルッダ達の姿が見えます。ブッダは彼らの前で語りました。
「弟子たちよ、私も老いてきた。身体や力は衰え、最近は侍者がいてくれたらよいが、と思うことが増えてきた。どうか、皆で、私の侍者になるべき者を選んではくれないだろうか。そうすれば、その侍者の者が私の生活を支えてくれるだろうし、私の説法を記憶しておいてくれるだろう」
師の言葉に、弟子たちはお互いの顔を見合わせました。ブッダの侍者になることは大変名誉なことですが、同時に、大変に気を使う役割なのです。皆が沈黙している時、自ら名乗りでる者がいました。
「わたしが、その役をおおせつかりたく存じます」
その人は、コーンダンニャでした。彼はブッダの父、スッドーダナ王が息子が出家した際に、その行く末を心配し、ブッダの側を離れぬように差し向けてきた五人の家来の内の一人でした。その後、五人はブッダ最初の弟子となり、コーンダンニャはブッダの教えを最初に理解した弟子なのです。

 誰もコーンダンニャの申し出に異論は出なかったのですが、
「コーンダンニャよ、あなたの申し出は大変嬉しいのだが、あなたもまた私と同じように年をとってしまった。あなたも、侍者を持つべきだろう」
言われてみれば、コーンダンニャも年老いていました。  こうして、色々と弟子たちを候補にあげてみるのですが、皆年老いていました。  この時、神通力に優れたモッガラーナが、師の考えを読み取ろうとしていたのです。
「いったい、師はどのような者を侍者としてお望みなのであろうか」  モッガラーナは静かにブッダの心の中を覗いてみたのです。  「おお、そうであったのか」  ブッダの意中の人を知ったモッガラーナは、仲間達に話しました。そして、一緒にアーナンダを訪ねた。
「友アーナンダよ、師は、あなたに侍者となってほしいと願われている。サンガの皆も承諾してくれた。どうか、あなたに、師の近辺を世話してもらい、師の説かれた教えを記憶してもらいたい」

モッガラーナの言葉を聞いたアーナンダは驚きました。まさか自分が、と思っていたのでしょう。
「友モッガラーナよ、それはとんでもない、畏れ多いことだ。私に世尊のお世話が出来るはずがない」 と言って、アーナンダは辞退しようとするのですが、モッガラーナはそれを許しません。
「友アーナンダよ、師は、あなたの優しい心をとくに気に入られている。適任者はあなたしかいないだろう。師の願いなのだ、どうか受け入れてくれないだろうか」
師ブッダの願いであれば、聞き入れないわけにはいかない。  だが、アーナンダは師の侍者となるに際して、三つの条件をお願いしました。
一、ブッダに供養された法衣を私は身に付けないこと。 二、ブッダに供養された食事を私はいただかないこと。 三、時ならぬときにブッダに会わないこと。
他の弟子達の嫉妬を避けるために提案したこの条件を、ブッダは了承し、アーナンダはブッダの従者として勤めることとなりました。

「ブッダを支えて」


アーナンダが影のようになってブッダの側につかえること25年、ブッダは80の齢を迎え、いよいよ旅の最後を迎えようとしていました。
アーナンダの助けなしには、ブッダは何事も出来なくなってしまいました。  教団の後継者と任じていたサーリプッタ長老とモッガラーナ長老が先に亡くなってしまったことも、ブッダにとって大きな心の痛手となったのかもしれません。二人の長老が亡くなった報せに、号泣するアーナンダを見て、ブッダは言いました。
「アーナンダよ、大いなる樹が枯れる時には、先ず、大きな枝から枯れるというではないか。命あるものは、必ずいつか死を迎えるのだよ」  と言ってアーナンダを慰めたのです。  ブッダはなおも、我が身を奮い立たせて、伝道の旅を始めようとしていました。
「さあ、アーナンダよ、アンバラッティカーの園へ行こう」
そこは、ラージャガハ(王舎城)を出て、北へ行くこと数キロの距離にある、マンゴー(アンバ)の樹の生い茂る美しい園でしたが、ブッダの老いた身体では一日にわずかな距離を歩くのがやっとでした。
「師よ、そんなに無理をなさらずとも、ここラージャガハの地でゆっくり静養されたらよいではありませんか」  と、アーナンダは言いました。
「アーナンダよ、私のこの身体が生きている間は、一つ処にとどまらず、教法を説き広めるために、多くの地と縁を結びたいのだよ」  と、ブッダは静かに応え、北への旅をはじめるのでした。ナーランダ、パータリガーマ、ガンガーの河を渡って、ヴェーサーリーへ。

ヴェーサーリーに着いた頃、雨季が始まりました。高温多湿の雨季を迎えると、弟子達は安居(※あんご=屋内において身体を休め、静かに修養する)に入るのです。ブッダは同行の弟子達に、友人、知人を頼り、安居に入るように命じました。ブッダもアーナンダとともに安居に入ったこの時、死ぬほどの激痛を伴う腹痛に襲われたのです。

アーナンダも、もはや師はこれまでか、と覚悟したほどでしたが、ブッダはこの激痛に耐え抜いたのです。
「今、ここで私が、最後の言葉を与えずして亡くなれば、弟子達に不安を残すだろう」と。  そして、この時ブッダはアーナンダに言いました。
「アーナンダよ、私はすでに弟子達に教え残したものはない。ことごとく全てを語り尽くしたのだよ。最後に何か特別なことを弟子達に語るという事はないのだ。どうか、私亡き後も、法を拠り処とし、自らを拠り処として、怠ることなく勤めるのだ」
激苦から回復したブッダは、なおも北へ向かって旅を続けました。途中、マッラ族の住むヴァーパーという土地において、鍛冶工チュンダの家に招かれて、供養を受けた食事にあたってしまい、またもや腹痛に襲われてしまうのです。下痢と嘔吐をともなう激しいものでした。  それでも、ブッダは病身を支えつつ、北へ向かい、クシナーラーに着いたのです。

そして、ブッダはアーナンダに言いました。
「アーナンダよ、あのサーラの双樹の間に頭を北に向けて、床を用意してもらえないだろうか。私は疲れた。しばし横になりたい」
アーナンダは言われたとおりに、サーラ樹のもとに床を敷き、ブッダは頭北面西の姿勢で横になりました。アーナンダは、この時が師の最後という予感がして涙が止まりませんでした。
「アーナンダはどこに行った?」  姿の見えないアーナンダを心配して、ブッダは近くにいた弟子に問いました。    「向こうで泣いております」
「アーナンダに私のところに来るように呼んでくれないか」
「はい」  弟子は呼びに行き、側に来たアーナンダにブッダは言いました。
「アーナンダよ、泣くのはやめなさい。いつか私が言ったではないか。この世に生きる者は皆、親しい者とも必ず生き別れる時が来ると。それが、この世の定めなのだ。アーナンダよ、あなたは、本当に長きにわたって、よく私に仕えてくれた。あなたの優しい心にいつも感謝していたのだよ。どうか、私亡き後も、私の説いた教法と、戒律を、師と思い励みなさい」  アーナンダの涙はまだ止まりませんでした。
「・・・すべてのものごとは移ろいやすい、放逸ならずして勤めるがよい」
と、弟子達に最後の言葉を遺し、ブッダは静かに目を閉じました。時ならぬ、サーラ双樹の白い花が咲き乱れ、ブッダの身体の上に降り注ぎました。

※「多聞第一」
仏教のお経の冒頭に書かれている、「如是我聞」という言葉は、「かくの如き、我(アーナンダ)は、師であるブッダから聞きました」という意味になります。仏教のお経には冒頭に必ずこの言葉があります。

それは、先にマハーカッサパの頁で話しました第一結集のときに、ブッダの説かれた教えを、すべてアーナンダが記憶し、集まった弟子達の前で語り聞かせたからです。文字で残すことの出来ない時代に、ブッダの説いた教えを耳で聞き記憶していたアーナンダは、「多聞第一」と敬われ、現在に伝わる仏教経典の礎となったのです。