第1話 幼少期の法然上人
私たちの法然さまは今から約八百五十年前に現在の岡山県久米郡でお生まれになりました。父・漆間時国と母・秦氏夫妻が本山寺というお寺に籠り、子宝を祈願してようやく授かった子供と伝えられています。法然さまがお生まれになった時には紫の雲があらわれ、庭先の椋の樹にはどこからともなく流れてきた白い幡がたなびいていました。偉人や聖者の誕生の際には不思議な現象が伝えられていますように、法然さまが誕生した時にも見たことがないような不思議な光景があらわれました。両親にとって待ちに待った子が勢至丸です。
勢至丸は両親の限りない愛情を一身に受け、たくましくも心優しい少年として成長していきます。昼間は庭先で竹を馬に見立ててまたがり、勇ましく合戦の真似事をしていたそうです。そうかと思えば、西の方角を向き「夕陽の向こうに不思議な世界が広がっている」と言いながら、静かに掌を合わせていたそうです。両親にとっては、すくすくと成長する我が子を暖かく見守る幸せな日々が続きました。
しかし悲劇は突然起こります。父・時国は地方豪族として地領を統治していました。また当時は荘園制の時代ですから、中央から地方にいわゆる官僚が派遣され、地領を管轄していました。つまり土地そのものが地方豪族と中央官僚との二重支配体制になっており、両者は年貢のことなどで度々反目する関係にありました。漆間時国の時の中央官僚は明石源内定明という人物です。時国と定明はまさに犬猿の仲で、日頃から勢力争いをしていました。この争いがエスカレートし、ついに明石定明が漆間時国に夜襲をしかけます。これが明石定明夜襲事件といい、一夜にして勢至丸の人生を大きく変えたものでした。勢至丸が九歳の時の悲劇です。
この夜襲は暗闇に火がついた矢が飛び、刀と刀が激しい火花を散らした壮絶な戦いであったようです。明け方になり定明側が引きあげた後には、多数の時国の家来が息絶え、そして時国本人も無数の刀傷を受け瀕死の重傷でした。この一夜の惨事を伝える法然さまのお言葉は残っていませんが、目の前で繰り広げられた死闘は幼い勢至丸の脳裏に焼き付けられたことでしょう。
自分の死期が間近に迫ったことを悟った時国は枕もとに勢至丸を呼び、「決して仇を討ってはならない」と言い残しました。当時の武家の習慣では、復讐こそが武家の面目であったことでしょう。しかし時国は血で血を洗うような残虐で闇黒な世界へと我が子が歩むことに耐えられませんでした。愛すべき勢至丸にこれ以上の苦しみを体験させるわけにはいけなかったのでしょう。九歳といえば自分で判断でき始める年齢です。勢至丸は込み上げてくる悲しみと怒りをじっとこらえ、今まさに息絶えようとする父の最期の言葉を静かに聞いていました。
数日後、夜襲の傷が生々しい生家を後に、夜中、人目に隠れて母方の叔父にあたる観覚が住む菩提寺へと歩む勢至丸の姿がありました。この時の勢至丸には、「もう二度とここには帰ってくることはないだろう。今はとにかく生きのびよう...」という気持ちであったことでしょう。
第二回 一度として烏帽子をかぶらなかった法然上人
法然さまとほぼ同時代に活躍した明恵上人の伝記の中に、「四歳の折に、父親が戯れに、私の頭に烏帽子をかぶせて、《おぉ、なんとも見た目にも良い男ではないか。成人したら是非とも宮中に遣わそうぞ》と言った。この言葉が頭から離れず、見た目の良い成人になることを嫌い、自らの身体を傷つけようとさえした。私はそれほどに出家したかったのだ」という一段があります。また『伴大納言絵巻』には博打で負けて裸にされた男が、褌と烏帽子のみを残した絵が書かれています。つまり中世にあって烏帽子の存在は官位の象徴のみならず、成人男性の象徴でもあったことが分かります。
明恵上人
法然さまのお言葉の中に「われはこれ烏帽子もきざるおとこ也」という一文があります。幼いながらも烏帽子をかぶった明恵上人とはまったく反対の発言です。この一文は「私は官位に就いていない男なのだ」あるいは「私は取るに足らないような愚かな男なのだ」と解釈されてきました。確かにこの一文にはこのような意味がありますが、もう少し深い意味があるようにも思えます。明恵上人の伝記から烏帽子は良い男の必須アイテムであるとともに、『伴大納言絵巻』の事例から烏帽子は成人男性の象徴でもあることが分かります。だとすると、この「烏帽子をかぶることができない男」とは、単に「立身出世を望む俗世から離れた出家の身」という意味のほかに、「この私は、社会にあってごく一般的な成人男性としては決して生きていくことができない存在なのだ」という告白が込められているようにもうかがえます。
烏帽子-えぼし-
法然さまのこの恐るべき告白は一体、何を物語っているのでしょうか。ひょっとしたら比叡山で、三番目の師であり、法然さまが最も信頼した師である叡空のみに打ち明けたあの秘密、つまり自らが夜襲の生き残りであるという幼少期の忌まわしき現実を指しているのかもしれません。夜襲にあって生き延びたということは、もはや帰るべき故郷もなく、また烏帽子をかぶせ後見人となる烏帽子親もなく、文字通りの天涯孤独の身となったということです。法然さまはあの痛ましい事件をきっかけに人生が大きく変わり、あの事件が幼少の勢至丸の明るい将来をすべて奪い取り、あの日以来、世間からも時代からも見放された人生が始まったのです。おそらく法然さまは、人生の中で一度として烏帽子をかぶった経験はないことでしょう。
だからこそ法然さまが「われはこれ烏帽子もきざるおとこ也」に続けて「十悪の法然房が念仏して往生せんといひて居たる也」と言い、「人間とは、どこまでも罪深い存在なのです」と言われる時、そこには時代から見放された少年が涙ながらに訴えた「なぜ、人はこのような残酷な運命を生きなければならないのか」という声が、そして長年に渡る修行と思索の中で「なぜ、人生はかくも悲哀なものなのか」と問い続けた、宗教的天才の大いなる苦悩が含まれているのです。
法然さまは比叡山から離れた後、お念仏の教えを説き広めるとともに、没落した貴族の子供や、出家する以外に生存の道が残されていない平家の子供たちも、自らの側に呼び寄せ、彼らを護っています。この法然さまの姿には「時代から見放された子供たちに、自分と同じような哀しい人生を歩ませてならない」という決意のようなものを感じずにはいられません。法然さまのあの優しさの後ろには、あの事件によって大きく変わってしまった自らの人生をお念仏によって受け入れ、阿弥陀様とともに生きていくことで自らの人生の悲哀を受け止めた経験があるのかもしれません。阿弥陀様を信じ、阿弥陀様とともに生きていこうとする決心こそが、法然さまのおおらかさや優しさやあたたかさの理由だったのです。