第15話 四国配流①

 四国への長旅の途中、神崎の湊に立ち寄りました。当時はこの地で川舟から海船に乗り換えるため一泊したそうです。神崎は奈良時代から神埼川と淀川の合流地として、また瀬戸内海と京を結ぶ港として栄えていたところです。平安時代には港町として繁栄し、「天下第一の楽地」とまでいわれていました。

 神崎の湊に法然さまが乗った舟が着いたときのことです。宮城という遊女が自ら舟を操りながら、法然さまの舟に横付けしました。舟には他に吾妻・刈藻・小倉・大仁(あるいは代忍)という四人の遊女が乗っていました。

 五人とも二十四、五歳くらいの年齢で大変に美しい女性でした。舟の上から宮城が「法然さまの舟とお見受けいたします。お釈迦様も女性からお生まれになったと聞いております。仏さまはあらゆる人々をお救いになり、お導きになるそうですが、なぜ私たちはこんなにも辛く切ない日々を送らなければならないのでしょうか。どうか次の世では救われる教えをお聞かせください」と声をかけました。すると法然さまは、「阿弥陀様のお名前をとなえなさい。そうすることで、これまでのすべての罪が消え去り、次の世では必ず阿弥陀様のお浄土に生まれることができます」と優しく答え、五人の遊女とともに声を合わせてお念仏をとなえました。

 お念仏をとなえながら五人とも涙で声をつまらせました。やがて、「法然さま。こんなにもありがたい教えをお聞かせいただき、本当にありがとうございました。お言葉は生涯忘れません。聞けば讃岐までの長旅とのこと。どうぞこの箱をお持ちくださいませ。何かの折には、お役に立つかもしれません」といい、手箱を差し出しました。法然さまが箱を受け取り開けてみると、中には五本に束ねられた綺麗な黒髪が入っています。ハッと思った法然さまが五人の顔を見ると、「法然さま。本当にどこにいてもお念仏で往生できますよね」と声がかかりました。法然さまが「はい。阿弥陀様が必ずお救いに参られます」と答えると、五人は安堵の笑みをうかべ、静かにお念仏をとなえながら、誰からともなく水の中にその身を投じていきました。

 五人の入水があまりにも突然のことだったので周囲の人たちは驚き、急いで五人の遊女の安否を気遣いつつ捜索しました。しかし五人とも助かることなく、その後しばらくしてから遺体で発見されました。五人は手に手を取り寄り添うようになって橋の杭にひっかかっていました。彼女たちの亡骸が水中から揺り上げるかのように浮かんできたので、いつしかこの橋を「ゆりあげ橋」と呼ぶようになったそうです。今はもう「ゆりあげ橋」は残っていません。一説では現在の神崎橋のあたりといわれています。この神崎橋の近くの梅ヶ枝公園の一隅に「遊女塚」といわれるお墓が静かに立っています。これは入水した五人を偲び江戸時代に立てられたお墓で、表面に「南無阿弥陀佛」の名号が、裏面には五人の遊女の名が刻まれています。


第16話 四国配流②

 瀬戸内海を渡り、塩飽諸島の本島の笠島の浦にたどり着いた法然さまは、当地の地頭であった駿河権守・高階保遠という人物から手厚い接待を受けます。『四十八巻伝』の伝えるところでは、この高階保遠が法然さま到来の前夜に不思議な夢を見て、「これは明日、何事かがあるお告げに相違ない」と思っていた折に、法然さまの船が着いたそうです。

 高階保遠は早速に法然さまを自らの館に招き、長旅の疲れを癒すために薬湯を用意した(『四十八巻伝』)と伝えられます。別の伝記(『九巻伝』)には、温室を用意したと伝える記事があるので、おそらく法然さまは今で言う「薬草入りのサウナ」のような所に案内され、そこでゆっくりと身体に着いた潮を洗い流し、今で言えば「良い湯だなぁ...」といった気分でリラックスされたのかもしれません。この思いも寄らなかった歓待に、法然さまは薬湯の中で「極楽も かくやあるらん あら楽し はやまいらばや 南無阿弥陀仏」という一首をお詠みになったそうです。これこそ「いや~極楽、極楽」と、温泉やサウナでつい口にしてしまう言葉の起源かもしれません。

 その後、高階保遠は自らの館のそばに法然さまのために庵を設けます。この庵こそ、現在の専称寺のはじまりです。ここで法然さまは高階保遠はじめ多くの人々にお念仏の教えを分かりやすく説き示しました。法然さまの教えを受けた高階保遠は出家し西忍と名乗り、お念仏を自ら実行しました。この姿を見た法然さまは、所持していた金銅仏と、自ら正面に「忍」と刻んだ木製の鉦を、さらには石に「南無阿弥陀仏」と刻み込み、これらを西忍に与えました。この金銅仏と木鉦と名号石は今でも専称寺に伝わり、大切に保管されています。

 塩飽諸島・本島の阿弥陀寺から船に乗った法然さま一行は、一路、丸亀を目指して進みました。一行は阿弥陀寺で島の人々と涙の別れを済ませ船を出しました。穏やかな海を船がゆっくりと左右に揺れています。いくら穏やかとはいえ潮風を直接全身に受けますので、身体はベタベタになり、喉も渇いたことでしょう。

 ようやく四国に船が着いた頃には法然さまをはじめとする旅の一行全員が疲れており、陸に上がるや「とにかく水を一杯ください」と口々に地元の人にお願いします。しかし、丸亀は今も昔も雨が大変に少ない所であり、船が着いた辺りはどこを掘っても塩水が湧き出るばかりで、真水の井戸は見当たりませんでした。すると法然さまが船をこぐ時に用いた櫂を手に、浜辺から少し離れたあたりまでジッと下を見ながらしばらく歩き、ある所で立ち止まってお念仏をとなえながら手にした櫂で土を掘り始めました。

 同行の弟子や浜辺の人々は何が始まったかも分からずにキョトンとしていると、法然さまが一メートルほどを掘ったあたりから真水がコンコンと湧き出てきました。これには同行の弟子や浜辺の人々もビックリして、慌ててその場に駆け寄り湧き出る水を手にすくって飲んでみると冷たい真水であったことに驚愕しました。この出来事を目の当たりにした人々は一様に「このお方はただのお方ではない。さぞかし徳が高いお方に違いない」と口にし、早速に地元の有力者にこのことを告げに行ったそうです。この場所に建立された寺院が現在の正宗寺です。


第17話 四国配流③

 四国に上陸した法然さまは丸亀から小松庄に移動します。ひょっとしたら一行は法然さまの体調などを考慮し丸亀から土器川を上流に舟で上って移動したのかもしれません。小松庄には生福寺という真言宗のお寺があり、法然さまはこの生福寺を浄土宗のお寺として入り、ここに腰を落ち着けました。古来、この地は「新黒谷」と呼ばれ、近くを流れる土器川が鴨川に、また付近の山々が東山三十六峰に似ており、特に夕刻は京都の黄昏時に良く似ていることからこのように呼ばれていたそうです。京都と良く似た新黒谷の生福寺に居を構えた法然さまの胸中は、ひょっとしたらこの地で自らの人生の終焉を迎えることを意識していたのかもしれません。『四十八巻伝』巻第三十五には生福寺に入った法然さまが広く人々に「人生は思った以上にはるかに儚いからこそ、今、私たちはお念仏をとなえるのです」と説き示す様子が描かれています。さらに法然さま自らが勢至菩薩像を一体作成したことも伝えています。

 また『四十八巻伝』巻第三十五に説かれている津戸三郎との書状の往復は、時代的にこの生福寺で行われたと考えられます。今でこそメールなどでいつでもどこでも通信できますが、法然さまの当時は手紙が最も早く確実な、しかも唯一の伝達手段でした。法然さまのお手紙が今日たくさん伝えられていることからも分かるように、法然さまは手紙を積極的に使用し、お念仏の教えを遠く離れた人々にも懸命に伝えようとしています。

 法然さまは四国滞在中、この生福寺を居住の地としました。上人と生福寺とのご縁はこれだけではありません。法然さまの弟子であり、常に行動をともにしていた堪空上人が、法然さまの入滅後に御遺骨の一部を首にさげ崇徳上皇五十回忌に四国に入り、昔、法然さまと歩いた道を再び歩きました。そして生福寺に到着すると、「この地は法然さまと私にとって思い出深いところである」と言い、法然さまの御遺骨を埋葬し宝塔を建てたそうです。

 時代が大きく流れ、江戸時代初期の寛文六年(1666)に高松藩松平頼重公の菩提寺建立に際し、生福寺が高松の仏生山法然寺に全面移転することとなりました。移転後に丸亀から寺名だけを移し現在の土地に建立されたお寺が西念寺です。今でもこの地には生福寺が高松に移転することを悲しんだ土地の人々の思いが子守歌に託され伝えられています。

 また、四国にはこの他にも実に多くの法然さまの足跡が残っています。たとえば「熊谷蓮生坊の住居跡」には法然さまと熊谷蓮生坊の御影を描いた掛け軸が祀られ、いつも綺麗な花がたくさん飾ってあります。またこのお堂の由来を記した額があり、そこには「もともとこのお堂があった所には人が住みつくことができなかった。これは聖なる土地には人が住めないことによるものであろう。ここはまさしく法然さまを追って四国に入った直実の居住跡である」という趣旨が書かれています。このお堂は今も地元の人々の信仰を集めており、正月と八月の十四日にはこのお堂に心ある方々が集まりお念仏をとなえているということです。

 この地でこうして法然さまの足跡を八百年間も守り続けてきた多くの方々の強い意志には、思わず目頭が熱くなります。これこそ「念仏の声するところ、我が遺跡なり」と法然さまが仰せになった言葉の通りであり、この地でも今なお法然さまの念仏の声が響いています。


第18話 四国配流④

 「亡霊済度の経塚」は畑田八幡宮の側にある経塚です。ここは源平合戦の折の落武者を供養した塚とも伝えられ、ある伝説が残されています。この近くにある藤原岡の塚で死後に迷える女人が、日ごと夜ごとに口から火炎を吐きながら空中を飛び回っていたそうです。人々がこのことに恐れ慄いているところに、承元元年三月に法然さまがこの地を訪れました。人々から事の経緯を聞くや、法然さまは川から小石を拾い集め、その小石一つずつに「浄土三部経」を一文字づつ書き入れ、写経が済むとこの小石の上に石を置いてそこに仏像を刻み、この仏像を七日間供養した後に小石を投げると、亡霊となった女人は五色の雲に乗って即時に成仏しました。その後、この地にお堂が建立されました。

 今も四国には、八百年という時間の中で法然さまの足跡が残っています。この足跡こそ、四国の人々が心から法然さまを大切に守り、そして守り続けることを誇りとしてきた証しでもあります。

 承元元年十二月、四国流罪が解かれた法然さまは、その翌年に四国を出発します。しかし、途中で海が激しく荒れ、十月二十一日、現在の報恩講寺から五百メートルほど大川峠方向に向かった油生浜に漂着したそうです。法然さまが浜に降り立った瞬間、浜全体が極楽浄土の瑠璃地に変容したことから、後にこの浜を瑠璃浜と呼ぶようになりました。この光景を目の当たりにした地元の人々は驚愕し、長者の孫右衛門をはじめとする多くの人々が法然さまに帰依しました。法然さまの教えに心から感動した人々は、法然さまとの別れを心から悲しみました。すると法然さまは桜谷の桜の一本木から自らの分身を彫り出し、さらにその余材で百万遍の大念珠を作り、この浦の人々に授けたといい、今も報恩講寺に伝えられています。